小田原城の城址公園内に二宮金次郎(後の二宮尊徳)を祀る「報徳二宮神社」があります。
二宮金次郎と言えば薪を背負いながら読書をするという銅像が全国の小学校に置かれて有名です。
金次郎は江戸時代の1787年に相模国(現在の小田原市に)に百姓の長男として生まれました。小さい頃から家計を支えるために薪を売り、勉強をするために夜に火を焚いて読書をしていたそうです。
父利右衛門は、養父から13石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かでしたが散財を重ねていました。金治郎が5歳の時1791年に南関東を襲った暴風で、付近を流れる川の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまったそうです。家も流失し、父の田畑は砂や小石だらけになりました。新しく耕して数年で復旧しましたが、借財を抱えて家計は貧しくなりました。
そして金次郎が10代の前半に両親が相次いで亡くなり、親戚の萬兵衛の家に身を寄せることになりました。金治郎は本家・祖父の家で農業に励みました。萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを「燈油の無駄使い」として嫌っていました。そこで金治郎は考え、堤防にアブラナを植え、菜種を採取してに燈油にしました。また、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得たりしました。
20歳で生家の再興を始めました。家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を農民に貸しに出すなどして収入の増加を図りました。生家の再興に成功すると、金治郎は地主や農園経営を行いながら自身は小田原に出て、武家に奉公する武家奉公人としても働いたそうです。この頃までに、身長が約180センチ強で、体重は94kgであったと言われています。
また、金次郎は生涯で600もの農村・地域を復興させました。金次郎の生きた時代は飢饉が流行したり、藩や村の財政が不安定でした。そのため、多くの場所で財政難に陥っている人達がいました。そこで金次郎は「報徳思想(仕法)」を編み出しました。このおかげで財政難を立て直すことのできた人々が数え切れないほど存在するそうです。
「報徳思想」とは、私利私欲に溺れずに社会へ貢献することを考えていれば、いずれ自らにその利益が帰ってくると言う考えを説いたものです。金次郎の考案した「報徳思想」は様々な人物に影響を与え、近代日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一も金次郎の教えに影響を受けた1人だそうです。
「報徳二宮神社」の側に素敵なカフェがあります。
「きんじろうカフェ」です。
金次郎を多くの方に知っていただくためのカフェだそうです。本格イタリアンコーヒーをはじめ江戸時代に金治郎が食べていた食事「呉汁」